昭和40年01月31日 朝の御理解
物を〔つかむ〕でも、物を使うでも、この五本の指が自由に使いこなしが出来らなかったら物をつかむ事ができません。いやそれはちょっとした物ぐらいつまめましょう。親指と人指し指でちょっとつまめるような物。ね。高高指やら薬指やら小指ですら、ちょっと、使えばつかめんことはない、小さいものは。もちろん本当の物を握るとか、本当な物を掴むとかということになったら、この五本の指が自由自在にこう動かなければ掴めないでしょう。握れないでしょう。ね。
今日は一つこの五本の指のどれでもが、自分の信心のしんしょに、身に付いて来なければならない、ということを聞いて頂きたい。この五本の指を、皆さん思うてみなければいけません。信心を一生懸命にお参りをする。一生懸命に拝む。まあお参り信心。一生懸命にね。もう人間の限界を行くというですか、もう一生懸命よう拝みなさる。一生懸命ようお参りしてきなさる。というのは私は、こう人指し指でこうやって、その掴む位のおかげと思うですね。
椛目にもそういう例があるですたい。はぁありゃあの人じゃろう、こりゃこの人じゃろう、こりゃ自分じゃろうという風に、一つ思うてみてご覧なさい。なかなか興味のある御理解です。こりゃ高高指。中心。例えば、お参りはそうしげしげと出来んでも、御理解はそう頂かなくても、ね、本心が間違いない。いうなら「正直の頭に神宿る」式の考え方をしておる人ですね。信心ちゃもうこれ一丁じゃ。ねぇ。その代わりいわゆるそのなかなか正直である。まともな生き方をする。
けれどもその一生懸命信心の稽古をするというわけでもない。一生懸命お参りしてくるわけでもない。教えを頂くということが楽しみでもないと。そういうそれでもやはりね、それが信心で成されるときですたい、やはりお蔭を受けております。けどもそれは親指とこう高高指で中心でこう掴んでおるような程度のものではないかとこう思うんですね。この位のものならですよ、掴めます。ね。
次はこの薬指。どうかあると言えば、すぐ御神米。さあ御神水、御神酒さん。もう御神水と御神酒さんな切らされん。もう子供達までがそう思い込んでおるという。ねえ。もう薬は、そのもう御神米、神様は薬がわりのごと思うとる。それとはまた反対にですね、ほかの事は出来ておるようであっても、こと体の事になるともう直ぐ、さあ医者だ、薬だと、一番口いう人もある。こりゃ反対の意味合いにおいて。
あれだけの信心が出来とって、たった、ちょいとどうかあるちゅやぁ、もう直ぐお医者に電話かけなっしゃる。直ぐ病院にいかっしゃる。そしてから神様。例えば、それとまた反対にですねえ、まだ椛目で、十何年信心を続けておるけれど、続けておかげを頂いておるおかげでです、まぁだ薬というたことありません、病院というたことありませんて、いう人があります。有り難いと思うのですねえ。それかというて、病気せんかというわけではないですよ。
風邪も引きゃ頭の痛い事もありゃ胃の悪い事もあろうけれども、さぁ胃散だトンプクだと言わんだけのこと。いわゆる御神米で御神水で、または御神酒さんでお願いしておかげを頂くということ。そういうところに非常に焦点をおいて、強い信念をもっておる人もあるけれども、それはやはり私は、薬指と親指でこう持っておるようなもの程度のおかげ。只指一本で掴むおかげていうから、ちょいとしたおかげのようにあるけれども、これでもたいしたお蔭なんですよ、実を言うたら。
例えば、ほんならこれなんかは無い命が助かるちゅうのですから。ねえ。医者も見放した、薬からも見放されたという人がです、神様一本にお縋りさして頂いて無い命を助かったという例が幾らもあるようなものです。次には親指と小指で掴んだ話。これでも掴めんことはない。少し位は持てる。もうほんとに御理解を頂くとが楽しみ。椛目にお参りして御理解頂くことが楽しみ。
こりゃただ聞くとだけが楽しい。守ることはすかん。まあ講談聞きに行くごたる。まあいうならば一目惚れ的な、吉田先生なんかそんな感じが致しますですね。一目惚れしてからもう中身は分からんでも、先生のしなさるその動作所作まで覚えて帰る。一つの憧念心ですねえ。椛目に対する、いわゆる神様に対するその憧れの念といったようなものが非常に強い、いわば濃い。ね。
神様が慕わしゅうて恋しいごとある。親指と小指で掴むような信心。これでもたいしたことです、だいたい言うたら。此処のところがね、ほんとのもうとにかく一日会わねば千日の長たる気持ちで椛目に通うて来る人がある。そこで皆さんは、今の五本の指というか、四本の指ということを申しましたのですけれども、その中のどれを一番強く頂いておるかと。これはね、このどうでも、どうでも焦点がないと、と言う人もやっぱあるし、またおかげを受けてますですね。
三、四日前でしたかね。高芝さんのもとお仕事の上で、やっぱ税務署に努めておられる方なんですね。権藤さんと言う人。北野の向こうの方から参って来る。中島の上滝さんの姉さんのお導きで参った来た。やはり難儀な病気なんです。まだ高校二年生、娘さんが。そりゃ丁度あの関さんの様な病気なんです。敏子さんのよう。そりゃまあほんとにあらゆる病院にもかかって、うち折り合う、落ち着くという。病院でねえ。
ところがしばらく帰って来とると、またいわば起こるちゅう。さあそこで何々様何様というてあの何と言うですかね、あの善隣会と言うですか、善隣会なんかにゃもうほんとに一財産打ち込む位に打ち込んどる。あっちゃお金が随分懸かるそうですね。一週間おりゃ何千円ていう風に、それを何べんも何べんも講習を受けるというですか。ねえ。けれどもやっぱりいかん。
そこへその高芝さんのことを思い出してですたい、高芝さんが「金光様、金光様」ちゅうてじゃけぇ、金光様なら助けて頂くかも知れんちゅうてから、内々話しよった。そこへ関さんの話を聞いたり、黒岩さんから、たまたま先日椛目の先生が見えてから、こうしてお祭りを仕えて頂いたていうような話が出たから、あんたもお参りしよるなら、私も一度どうでんこうでん連れて参ってくれと言うて、参って見えたのが、丁度高芝さんところの謝恩祭の日ですから二十八日の日であった。
一日おいて昨日また参って見えた。そしてその言われることですね、「もう本当に先生この神様のあらたかなことをね、有り難いと思うて、夫婦で今日はお礼参りさしてもらわにゃというてから、実はお礼参りさせて頂いた」と言うてから参って来なさった。もう先生、帰とったらおかげ頂いとった。もうこの人はですね、ちゃんとテレビば、見もせんテレビの前に座って、炬燵に入って。
もう風呂にも入らなければ、もうお掃除いっちょせん。ちゃんとああせのこうせのとちゃ絶対言うことを聞かんそうです。ちゃんと炬燵に入ってそして見よるか見よらんか分からんけれども、テレビを付けてちゃんと座っとる。まぁそう言う様なまだ高校二生位なんです。それで先生帰ってから驚きました事は、表が綺麗に掃除が出来とる。家へ入ってみたら、もうてんでお縁なんかキラキラするごとお掃除が仕上げてある。
勝手入ったらもうちゃっとその夕ご飯の準備がするばっかりのようにしてある。ご飯なんか米仕込んでからね、炊くばっかりにしてある。もう風呂も焚き付けるばっかりにしてある。「はぁお母さんお帰りなさぁい」ちゅうてからもうとにかく〔普通の人と〕ひとっも変わらん。もう驚いてしもうてから「ちょいと黒岩さん来てくれんの」ちゅうてから、お導きしてくれた人を呼びにいってから、見てもらう位にお蔭頂いた。
けれどもまだちょっと、ほんならちょっとと、まあ昨日まで辛抱しとったところがですね、それからずっとおかげを頂いておる。ほんだけゆうたっちゃ、風呂にも入らんとに、「もうお母さん、早よう風呂に入りなさい。へてから私が最後に入るけに」ちゅうて綺麗に風呂に入ってですね、もう綺麗好きになって、もう本とにどことも病気と言うものが無いごたる状態だちゅう。
あんまりその狐にでもつままれたごたるようなおかげだもんだから、半信半疑だけれども、さあ昨日、一昨日、そして昨日の丁度昼頃参って見えられましたが、お蔭を頂き続けておるということである。これなんかは別にどれっていうて、今のこの五本の指からいうてどれっていうことではないでしょう。参って来てからお願いをして、いわゆるお取次のお徳で。誰だって一番初めはそんな風ですね、しかし椛目の人達は。
大体において。いわば信心も出来んのにおかげは頂いておるという事。夕べの御理解じゃないですけれども、「おかげは受け徳、受け勝ち」というあの御理解だったけれども。「おかげは受け徳、受け勝ち」という信心は実に有り難い。夕べの御理解ですから、後で聞かれる方はどうぞ聞いて下さい。けれども、おかげは頂き儲けというのではないと仰るです。「おかげは受け徳受け勝ち」というのは。
おかげの頂き儲け、例えば、そんな例があります。そういう風におかげ頂いてです、そしておかげの頂き儲け。それで信心を止めてしまう。さぁその後はどうなったか分からんけれども、それはおかげが本とに成就しとるとは思われないですね、そういう意味合いでは。おかげの頂き逃げという様なものです。神様はぽっとこの手付けだけ打って下さるが、その手付けだけ持って走る様なものんす。
だからそういう様な意味合いにおいてのおかげも確かに頂けれるんですねえ。「願う氏子におかげを授け」と仰るから、やはり金光様のお徳をもってするならばです、願う氏子にやはりおかげを下さるのだけれれども、そして後「理解申して聞かせ」とこう仰る。そこで皆さんはその理解を聞いておられてから、その理解の中から、どれを皆さんの信心の焦点にしておられ、どれを皆さんのいうならまぁ十八番かということ。
しっかり拝みなさるお参りしなさるねえ。お参りをしないけれども、高高指ではないけれど中心がです立派なんだ成程立派。あの人はいわゆる人格もある立派でもある。仕事にも一生懸命その忠実である。お参りするだけじゃなか教え頂くわけじゃなか。ただ「正直の頭に神宿る」て言った様な、いわゆる神が【 】からやはり頂くおかげもある。それもこれも大事お参りすることも大事。人間がそう変わることも大事。
ほんとに信念を強化する為にです、例え頭が痛か胃が悪かというて、さあ直ぐトンプクだ胃散だと言う様なことではなくてですたい、本当に御神水がどんなにあらたかなものか、御神米がどんなに有り難いものかと言う事を、本当に解らして貰うて、信心するようになったら、薬一服注射一本まだ打ったことありませんというようなおかげを頂くところにです、神様を愈々信ずる力、いわゆる信念の強化が出来るのです。ね。
これも大事。同時にそうしてお参りさして頂いているうちにです、いわゆる信心が段々好きになり、ね。それこそ初めにはさほど好きとは思はないけれども、お参りしているうちにです、何とはなしに離れられないような神様と皆さんとの愛というものがです、椛目が慕わしいものになって来るというようなこの信心もまた大事ね。なるほど自分はほんにおかげが受けられん筈じゃもんなぁ。人指し指の一生懸命もないもん。
お参りも一生懸命せん。それけん人間もいっちょん改まっとらん。ずるかとこもありゃ汚い所もある。そしてからどうかあるちゃ、やっぱそりゃ神様は神様ばってん薬も飲まにゃちゅうごたる人もある。ちゅうて椛目の慕わしゅうて慕わしゅうてという事も全然なかちゅう。こんなんじゃ何にもなかじゃん。それではいかんですというてならこの四本の指がですたい、全部身について例えばこの片一方の手を動かす様なもの。
そんなに難しいものじゃないちゅうこと。人指し指だけで握らんでも、高高指でわざわざこげんでなくてです、皆が、ね、この全部を動かしてですたい、握れれるということはさほど難しいことじゃないということ、稽古さしてもらえば。それが身に付いて来るということ。自ずと。ね。そういう私は信心さしてもらわにゃ、というてほんなら四本の指だけでこうやっただけじゃいかんもんじゃから。
やはり親指を上から、うっとこうやって押さえてもろうて、初めて一つの物を握ることが出来る。掴む事が出来るのである。おかげを掴む、お徳を握るということになるだろう。そこで私はいつもここの信心の中心と申しておりますところの、この総ての、様々の信心の中からです、神愛を悟らせて頂くということ。神様の思いを分からせて頂くということ。ね。そこにこの親指が言うことを聞いてくださるのです。
親の思いをわからせてもろうて、親の思いに添わせて頂こうという、神と仲ようする信心がここから生まれて来るわけ。それを私は成り行きを大事にしなさいとこう言う。ね。天地神明に不足を言うなということ。成り行きを大事にさしてもらい、成り行きを尊ばせて頂くということ。自然が求める修行をありがたくさせて頂くということ。そういう私は、様々な信心をひっくるめてです。
只今私が申しますような神愛を悟らして貰い、神愛に応えて行くところの信心がです、なされる時に、この親も、やはりこの四本の指にいわば一緒にです、働いて下さる。握ることが出来るのであり、掴むことが出来るのであるというおかげ。そういうものを以て、そういう信心から神様の御信用が頂いていけれる。それを御神徳というのじゃないかと私は思うのですよ。
信心しとります。もう十年。もう五十年しとりますというてもです、やはり人指し指だけの信心。高高指だけの信心。薬指だけの信心。小指だけの信心というような信心が、例えば、続けられて居ることも有り難いけれどもです、そういうようなものではなくて、この五本の指が自由自在にです、動く様な、動かせれる様な信心。ですからどうぞ、このひとつの今片一方の手を出して見てから思うて見て下さらないか。ねえ。
ならどうこう言う事がですたい、この五本の指の、この四本の指が皆動かせられんちゃ馬鹿らしか。ちゅうごと難しいこっちゃないと言うこと、実を言うたら。どれもこれもが身に付いて行く。ね。信心さして貰う。そして信心の愈々根本の所にあるところの神愛を悟らして貰う。神愛をほんとに愈々深く分からして貰う。その神愛に添うて行こうという精進努力。それを改まることだ、磨くことだとも私は申しております。
どうぞせめてです、せめてその片一方のこの五本の指で位ですね、石橋先生のみ教えの中にね、「人間の一握りていうたら、これだけだけれど、神の一握りちゅうたら、どれだけあるか分からん」とおっしゃるようなね、どれだけあるやら分からんという、そのお蔭をです、この五本の指で頂き止めなければいけないと思うですね。おかげ頂かねばなりません。